溶接雑記
イマジン(南相馬市原町区にて)
- 2011-09-10 (土)
- 雑記
人通りの少ない夜道をSさんと歩く。3月11日以降、列車が停車したまま機能していない駅に向かう道を、本来ならもっと賑やかであろう雨で濡れた商店通りを街灯が照らしている。カラオケボックスやスナック、チェーン店ではない個人経営の居酒屋などが距離を置いて3、4軒、ぽつりぽつりと看板を灯し、静まり返った町からふと湧き上がるように、人々の明るいトーンの声が漏れ聞こえてくる。
「戻って来た時、街灯が点いてなくて、真っ暗闇だったんですよ。ここが自分の町かって・・・まいりました」
Sさん家族は震災後、親戚や知人を頼って仙台~山形~東京と避難生活をおくった後、4月の初めにまずはSさん単独でここ南相馬市原町に戻り、のちに奥さんと愛猫を迎えに再び東京との間を往復したのだという。
わたしが気付かず通り過ぎようとして「あっ、ここ」とSさんが鍵を開け、シャッターを上げる。「50’s Spot/SHOUT」と掲げられた看板を照らすスポットライトが灯る。Sさんのお店だ。
被曝した夢
- 2011-04-28 (木)
- 雑記
先の晩、わたしは東京のど真ん中で被曝した夢を見た。
夢には過去にわたしが半導体製造工場のプラント設備の現場仕事(主に配管工事)に携わった経験がベースとして混ざっている。
半導体工場の建屋内のクリーンルームは塵埃が大敵で、それらを除去する為のフィルタを通じてクリーンな空気を循環させる空調システムが完備されている。また、半導体製造装置が据え付けられ、オペレーターが作業するフロアの床はたいていグレーチング構造になっており、それをいくつか外して設備工事の現場作業員などは床下に潜り込めるようになっている。床下といっても、そこも一つの設備配管専門の階下フロアのようなもので、半導体製造装置に使う冷却水のポンプや真空ポンプ、熱交換器、純水装置、ガスボンベ、薬品タンク、電源設備などが据え付けられ、それぞれから複数の配管やケーブルが立ち上がり、複雑に曲がりくねり、他の電源ケーブルの束とともにグレーチング下の頭上の空間を占拠しているような感じになっている。配管内を流れるの流体の種類を表す化学式記号や、流れる往復の方向を示す矢印のステッカー、バルブの開閉状態を示すプレートが目立つ場所に表示されている。階下の作業スペースは場所によって異なり、装置や配管の密集度によってもまちまちで、普通に歩ける所もあれば、中腰で作業するところ、場所によっては這っていかないとたどり着けないといった場合もある。古くなった装置を撤去し、最新の製造装置を導入するなど、設備を更新する度に作業員であるわたし達は限られたスペースを工夫して生かそうとするのだが、先人が後先のことを考えずにその場しのぎで設置してしまっている痕に出くわすとうんざりすることもある。クリーン服に身を包み、帽子にヘルメット、マスクにオーバーシューズ(靴カバー)での作業、その不自由なわずらわしさには慣れることがなく、階下の狭い空間、潜っての作業、独特の閉じ込められている感が相まってうんざりさは倍増させられる。だが、メンテナンス作業というのは基本的にそういうものなのだ。そういう状況の中で客先の要望に応え、問題を解決していくことが仕事なのだった。
宇宙のりんかく
- 2009-06-03 (水)
- 雑記
少年期において、わたしはまわりの、特に女子達に比べて言語感覚が格段に劣っていたように思う。何かを感じて思うところがあっても、それを言葉に置き換えて人に伝えることがうまくできなかった。口喧嘩にでもなると到底勝ち目などない。「そうじゃねえんだよ、ばかやろう」くらいのことしか言えなかった。「じゃあ、どう違うのか言ってみなさいよ」と迫られると、その場から逃げるしかなかった。
自然な建築
- 2009-03-02 (月)
- 雑記
これは常々思ってきたことだが、ものづくりの現場において、実際に身体を使ってものをつくる職人と基の設計者が直接対話できることほど幸福な関係はない。
中途半端な組織を持った企業ほど、その間に何人かの伝達係とでも呼びたくなる管理者を配置させたがる。まるで「悪夢の伝言ゲーム」をしているような気分になることもしばしばだ。
わたしの知る限りでいうと、若くて(年齢ではなく気持ちが)情熱があり、今までにない新しいことをやろうとする気概のある設計者ほど、前線にいる現場の職人のもとに足を運び、ものを聞きたがる。しかも謙虚に。職人の気質をよくわかっているのだと思う。たいがい職人はぶっきらぼうで、口が悪く、頑固で、そう簡単にとっておきの情報を教えたりしないものなのだ。
人間の覚悟
- 2009-01-10 (土)
- 雑記
「青信号の時が、実は一番危ないのです」
これは昔、当時わたしが入所した自動車免許合宿教習所の老齢の教官がいった言葉で、今でも時折思い出すことがある。初めて聞いた当初は正直いってピンとこなかったのだが、妙に心の隅にひっかかり、そのほんの数年後には実際に体験することになってしまったのだった。
自動車免許証の交付を受けるとすぐにわたしは職を探しに職業安定所に向かった。20代の中頃、それまでは今でいうフリーターをやっており、アルバイトの身分で様々な職を転々としていた。ある女性と出会ったこともあり、わたしはそれまでの生活スタイルにおさらばして、自動車免許証を手に、初めて会社員になろうと決意していたのである。目指す職種はドライバー。トラックでもタクシーでも車を運転する業務で、それに毎月の定収入が確保されるならば御の字だった。
人並みより遅れて免許証を手に入れた分、毎日車を運転することにより、ルールや技術を早く身につけようと思ったのだ。今思えば本当に運が良く採用されたのだと思う。自動二輪(中型)は長野の郷里にいた頃の高校生の時から持っていたが、四輪に関してはなにしろ運転経験がゼロに等しかったのだから。わたしの会社員生活はそうして初心者マークをつけて2tトラックに乗り込むとことから始まった。
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