タングステン

※この記事は10年以上前に書かれたものです。現在では実情に沿わない点があります。ご了承下さい。

月に一度、溶接屋が集まる食事会があり、わたしは毎回、それを楽しみにしている。 週末の夜、仕事を終えてから集まるのだが皆、車の運転があるので酒は一滴も呑まない。酒好きのわたしとしては少々物足りないが、なにしろ話が尽きないので場所や食事の内容はあまり重要にはならない。ファミレスの時もあれば小料理屋の時もある。 固定メンバーは師匠のEさん、工具屋のAさん、最年少のわたしの三人で、個人的な事から仕事の事までなんでも話す。酒も入らないのに中年以上の男達だけで賑やかに喋り続ける姿は、傍から見ればオバサンの集まりに近く見えるかも知れない。

先日の会はこのメンバーに、溶接機器販売のベテランであるAOさんが加わり、いつにも増して盛り上がってしまった。何を食べたかを今思い出せない程、話に夢中だったのだと思う。 AOさんは溶接機器に関して専門的な知識を持ち、仕事がら関東多摩地区の工場をあちこち飛び回っているので、どこでどういう仕事をやっているのかの情報も豊富だ。顔はワニ(失礼)が混じっているが、上空から俯瞰するトンビの眼を持っているのだ。

何年か前、ある大手製造業メーカーからAOさんにある依頼があったそうだ。それは真鍮部品と異種金属の接合で、これを溶接できる溶接屋を知らないか、と聞かれたそうで、その時AOさんの頭に即座に浮かんだのが、我が師匠のEさんであったという。 コストのかかるYAGレーザーや摩擦撹拌接合ではなく、EさんならTIG溶接で付けることができるだろう、と思ったと言う。 驚いたのはEさんだ。Eさんを名指しで直にメーカーの製造部長らが数人、部品を持って会社を訪ねて来たのだ。 お偉方に「どこで俺の事、聞いたの?」とはEさんもさすがに恐縮して聞けなかったらしい。それが後にAOさんの一言がきっかけだったとわかり、そのことで AOさんはEさんに「あの時、Eさんにいきさつを一言いっておくべきでした」と謝るが、EさんはAOさんに自分の名前を出された事が非常に嬉しかった、と 言った。「仕事冥利に尽きるよ」 その仕事はもちろんEさんの技でうまくいったのだが、その後、引き続いてその仕事が流れる事はなかった。と ても信じられない話だが、メーカーが直にEさんの所に来た事をやっかむ人がいたのだ。ある発言力を持ったその人の一声で、その仕事は会社として断ることに なってしまった。なぜ?と当人に聞いても答えは帰ってこないだろう。妬み、やっかみ、恨み、これらは人の間に存在してしまう感情ではある。が、ビジネスに そういう感情を入れてしまう会社がうまく行くはずがない。わたしも独立前に籍を置いていた会社なので批判したくはないが、当然ながらその会社は今はもうな い。

そういう話をしているとストレスが溜まるので、話題を切り替えようと、タングステンの話になった。TIG溶接機の電極に使うタングステ ンの事で、現在、一般的に最も多く使われているのはトリウムを混ぜた通称トリタン、セリウムを混ぜた通称セリタンだろう。他にも純タン、ランタンといろいろとあるが、それぞれに一長一短があり、直流で使うか、交流で使うか、点付けか本溶接か、小電流か、大電流で使うか、母材は何かといった条件によって使い 分ける事にしている。 「正確な時期はいつになるかわからないけど、ついにトリタンの製造が中止になる事になりました」 AOさ んが言った内容はトリウムは放射性物質であり、なるべく使うべきではないと前々から言われていたのだが、ついにドイツの規格に合わせて製造そのものを中止 する決定が日本の溶接業界でなされたということだ。なるべく使うべきではないといいながら今まで製造されて来たのにはもちろん理由がある。特に交流の大き い電流を使うアルミの厚板溶接に関してはトリタンは他のどのタングステンよりも持ちがよい。 電極は消耗品である。アルミの厚板を連続してやっていると、純タンは先端が丸く線香花火のように膨らんでブルブル垂れそうになる。セリタンも先端が溶け始めると片寄った楕円のようになり、アークが定 まらなくなってくる。トリタンは俗にいう花が咲く(先端にほぼ均等に亀裂が入り、それぞれの先に微小な粒がついたような)状態になるが、消耗が均一なので アークの安定にそれほど変化がない。

「そこで、是非お二人(Eさんとわたし)に試して頂きたいタングステンがあるんですが・・・べスタンと言って、YAGレーザのYであるイットリウムを混ぜた物です」 Eさんもわたしも初めて聞く代物だった。 「ドイツではそこそこ評判がいいらしいんですが、日本ではまだ普及してなくて、その使用感の生の情報が全くと言っていい程ないんです。単発でなく、継続して使ってみた時の利点と欠点の生の情報が欲しいんです」 面白いと思った。そういうことは仕事をする上での楽しみになる。EさんとわたしはAOさんから二本ずつもらったべスタンを子供のように握りしめたのだった。

「ところでさあ、トリタンとセリタンの大きな違いってわかる?」 Eさんがわたしを試すように言った。 「交流の場合、アルミの厚物で持ちがいいんでトリタン、前は純タン使ってたんだけど、やっぱりトリタンの方が持ちますね。直流では、トリタンはすぐ白っぽく なって点付けの時にアークの横っ跳びが多いし、セリタンの方が小電流でのアークの集中性が格段に良いので、点付けや薄物はセリタン使います」 「なんで薄物にセリタンがいいかわかるか?」 その場に居た皆が首を捻り、Eさんの次の言葉を待った。

「あのね、電流が違うんだよ」 AさんとAOさんは、えっ、と絶句したが、わたしは経験上、思い当たる節が瞬時に数々と浮かび、ああ、そうか、と合点がいく答えだった。 「Eさん、わかったよ。トリタンの方が電流が高いんだ」 「そう。ベローズ付ける時、比べてみな。よーくわかるよ」 わたしはアークの横っ跳びの可能性のあるトリタンでベローズを付けようなどとと思った事もない。Eさんはまだセリタンが開発される前、純タンとトリタンしかなかった頃、、トリタンでベローズを付けてた時の工夫を話してくれた。 「セリタンが出て来た時、ああ、これでベローズ付けるの楽になるな、と思ったもんだったよ」 こういう話を聞けるわたしはある喜びと幸せを感じる。勉強になるのはもちろん、明日からの仕事がまた楽しめるのだ。AOさんからもらったべスタンを試してみるのが、更に楽しみになってきた。