宇宙のりんかく

少年期において、わたしはまわりの、特に女子達に比べて言語感覚が格段に劣っていたように思う。何かを感じて思うところがあっても、それを言葉に置 き換えて人に伝えることがうまくできなかった。口喧嘩にでもなると到底勝ち目などない。「そうじゃねえんだよ、ばかやろう」くらいのことしか言えなかっ た。「じゃあ、どう違うのか言ってみなさいよ」と迫られると、その場から逃げるしかなかった。

相手が論理に持っていこうとするのに対して、感じたままに主張をしたいのだが、それができない。そんなわけで、いわゆる正当的な注意を女子達からよくされやすい男子だったと思う。もどかしさは残るが、それはそれでそういう(考え方の根っこが違う)ものなのだろうと口を噤み(自分は間違ってはいないと)開き直 るしかなかった。本を読むのが好きになれず、どちらかというと言葉そのものをバカにさえする態度で、宿題もせずに毎日、絵ばかり描いていた。絵を描き始め る前の白い紙には言葉にはできないもやもやした感受をそのままに描き込める空間が用意されているような気がして、そこに向かうだけでワクワクしたものだっ た。

小学5年生の時にNHKテレビで放送されていた人形劇「新・八犬伝」に出会うと、新聞紙を丸めてセロテープで包み固めて骨格を作り、母 親からもらったぼろ切れをつなぎ合わせて作った着物らしきものを骨格に纏わせ、犬塚信乃や犬飼現八を真似た人形を作りはじめたりもした。自分の身体である 手先を動かして近づけたせいもあり、物語というものがどういうものであるのか、感覚的にわかったのはこの時くらいからだと思う。そこでの言葉は自分の知ら ない世界や異なる世界、あるいは現実を投影させた架空の世界を語る音として、眼から受け取る映像の力も借りて耳からすんなり入ってきたのである。

本を読むのが苦でなくなったのはそれ以降のことだ。本を開き、活字である言葉も無意識に音や手足の感覚などに変換できるようになって初めて本が読めるようになったのではないだろうかと今では思っている。

ただ、大人になるに従って論理的に物事を捉えるための多くの言葉が必要で、それなりに獲得してきたような気がするが、それと引き換えにあの少年期の言葉以前 の感受性をどこかに置き去りにして来てしまったような、忘れてはいないのだけど、もうしばらく会っていない幼なじみのことをふと思い浮かべた時のように、 ちょっとした現実に違和感と寂しさを感じることもある。

先日、やっと観ることができた友人が過去に撮った一本の短編映画は、ある種のなつかしさとともに、柔らかで、それでいて秩序ある空間にわたしを優しく連れて行ってくれたのだった。しばらくぶりに幼なじみの友に会えたような気がして、言葉 の必要がない安らぎに身を委ねられたのだった。

〜M.I.K.filmチラシより〜
「宇宙のりんかく」 水野潔一 監督作品
故郷、福島県浅川町を舞台に、少年(大樹)の夏の一日を描いた作品。
お盆の朝、お母さんのお弁当を持って友だちの家に遊びに行った大樹だが、友だちの家でお寿司をご馳走になってしまう・・・。お弁当が食べられず困り果てた大樹。そんな彼を’お盆の力’が不思議な世界へと導いてゆく。

映画では、「罪」という言葉以前に心に生まれて抱いてしまう「いけないことをしてしまった感」、「理不尽」という言葉を知らなくても感じる「わだかまりのよ うなもの」、「お盆」は異界というよりも「いつもそばにあって、その時期だけ特別に姿が見えるだけのこことつながっている世界」という少年の言葉以前の感受と心象を連ねて、丁寧に丁寧に描かれてゆく。

映像、風景がこの上なく美しい。ふさやかな一本の樹が立つ丘、その裾野に広がる草原、楕円の石、森の奥深い神社の石段や狛犬、村の辻で胡座をかく牛飼いの男(彼は小さな共同体である村を見届けている神話的存在だ)、街道沿いの古い家屋の家並、迎 え盆に揺れる火、それらがある秩序だった順に繋がっていくことでやがて風景が普遍性を持ちはじめ、観る者に時間と場所を忘れさせる。まるで、どこにでも属 していて、どこにも属していないというような世界性を帯びてくるのだ。

ネタバレは避けたいので、一つだけ。少年の先祖であろう老人が、少年をある場所へ誘い、連れてゆく。そこで老人がおもむろに少年の手を取り、その指先をゆっくりと、あるものに沿わせてゆく場面は、この映画のハイライトでも あり、とても官能的だ。友人だから褒めるのではなく、本当に映画史上に残る秀逸なシーンだと思う。映画でしか表現できないことを、映像という方法に依存せ ずに(厳密に言語、脚本化しているはずだから)、映像と言語を制御して成し遂げた水野監督のたぐい稀な才能と力量を心底感じてしまった。

残念なことに、この映画の上映機会はきわめて少ない。自主映画ということで、他の自主映画にありがちな自己満足完結型の類いのものと一緒にされやすいのだろうが、こういう秀作は独立してもっと多くの人の眼に触れ、また、晒されて欲しいと思う。

今後の上映予定など、こちらで告知されるかも知れないので、興味のある方は是非とも。

M.I.K.film

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彼(水野監督)とはその昔(20年以上前)、まだお互いに手ぶらだった頃、炎天下の遺跡発掘現場で出会ったのだった。わたしより三つ程年下だが、現場では彼が先輩で、遺跡発掘作業の最初の手ほどきを受けたのは彼からだったように憶えている。

人当たりが優しく、気遣い上手の礼儀正しい二枚目で、一見クールのように見えるが、その内に熱くて、むさ苦しくて、うっとおしいほどの何かを抱えているのがすぐにわかった。彼の存在はわたしのような馬の骨でもそこに居やすくさせてくれたのだった。

現場では炎天下に汗だくの労働で身体中の水分を吹き飛ばせるのが心地よかった。仕事に一段落をつけ、朝一番でポータブルクーラーに作っておいたレモン果汁を たっぷり搾ったカルピスを、乾涸びた身体に注ぐように口から飲み干すと、風呂に入るよりも爽快なそれまでの積もった垢を落とした気分になれるのだった。

映画が上映されていた西荻窪のカフェで、ほぼ10年ぶりに会った彼は相変わらず礼儀正しい二枚目だった。そして、相変わらず何かを抱え続けているのもわかっ た。時間の都合で短い話を交わしただけだったが、彼の撮った映画が観れたこと、彼に会えたことで、また新しいエネルギーをもらえた気がしている。