イマジン(南相馬市原町区にて)

人通りの少ない夜道をSさんと歩く。3月11日以降、列車が停車したまま機能していない駅に向かう道を、本来ならもっと賑やかであろう雨で濡れた商 店通りを街灯が照らしている。カラオケボックスやスナック、チェーン店ではない個人経営の居酒屋などが距離を置いて3、4軒、ぽつりぽつりと看板を灯し、 静まり返った町からふと湧き上がるように、人々の明るいトーンの声が漏れ聞こえてくる。

「戻って来た時、街灯が点いてなくて、真っ暗闇だったんですよ。ここが自分の町かって・・・まいりました」

Sさん家族は震災後、親戚や知人を頼って仙台~山形~東京と避難生活をおくった後、4月の初めにまずはSさん単独でここ南相馬市原町に戻り、のちに奥さんと愛猫を迎えに再び東京との間を往復したのだという。

わたしが気付かず通り過ぎようとして「あっ、ここ」とSさんが鍵を開け、シャッターを上げる。「50’s Spot/SHOUT」と掲げられた看板を照らすスポットライトが灯る。Sさんのお店だ。

酒場の入り口であるスイングドアを開けて中に入ると、すぐ右手の奥の角が三角ステージになっており、時折プロアマ問わずにミュージシャンを招いてライブを やったり、地元の常連さんや風来坊がギター片手に気ままに思いつくままライブができるスペースになっている。こじんまりした店内には四人がけの四角いテー ブルが二つ、電線ドラムとも呼ばれる太いケーブルを巻き取る為の木製の樽のようなドラムを横置きに寝かせて利用したテーブルが二つ、突き当たりのカウン ターには背の高い椅子が六脚ほど用意されてある。

バドワイザーのネオンサイン、アンティークのコカコーラボトルや12インチサイズの丸看板 がカウンターの横に、アンティークラジオや扇風機が棚に並び、プレスリーやエディ・コクランなどのポスターが壁を埋め、ステージ周りの壁にはフェンダー・ テレキャスターやトーカイのヴァイオリンベース、ヤイリやヤマハのアコースティックギターなどがギターハンガーに吊るされてある。リアルタイムで知る由も ないが、店内は「50’s Spot」とあるように、古きアメリカで黒人達が演っていたブルースからロックンロールが生まれた当時の雰囲気を感じさせ、イギリスでパブロックと呼ばれ る音楽が生まれた土壌は、こういったお酒を飲みながら地元のミュージシャン達の気ままなライブを楽しめるお店の存在があったからだろうと思わせる。

いわゆる日本でいうライブハウスとは異なるが、音楽好きが集まる格好の場所として地元の人々に親しまれているお店だ。開店して今年で14年を迎えたそうだ。 わたしがこのお店に来るのは前回からは4、5年ぶりになる。当時はアンプラグドだったのだが、今はステージにギターアンプ、ベースアンプが置かれ、マイク も小さなミキサーを通してセッティングできるようになっている。懐深く、着実にお客さんとの関係が進化していることを感じさせる。

「カウンターの中は棚のCDが落ちて散らばったりして、めちゃくちゃだったけど、思ったほどではなかったですね。ギターも落ちなかったし。ただ、あの扇風機だけですね、落ちてきたのは(笑)」

地震の影響はここ原町ではそれほどでもなかったとSさんはいう。ただ、それもたまたま運良く地盤が他より丈夫だったのだろうと。たとえばすぐ先の隣町では家 屋の倒壊などがあったのだという。店の入り口近くの棚から落ちてきたアンティークの浅緑色の扇風機は昭和30年代の国産のナショナル製で、プロペラも鉄で できており、台座は鋳鉄を使っているのかすこぶるごっつくて頭部も重く、見るからにバランスが悪そうなのだが、これは15、6年前にSさんがまだ東京で会 社勤めをしていた頃にわたしがプレゼントしたものなのだった。店の木の床に打痕をつけたものの、扇風機自体はびくともしていなかったという頑丈さに驚いて 二人で笑う。

基本的にSさんはわたしに敬語を遣う。わたしの方が年上だという理由で。わたしも同じくSさんに敬語を遣う。Sさんは当時、東京にあった会社(今はない)でのわたしの先輩であり、この雑記にも一度登場してもらっているが、 わたしが今生業にしている耐真空精密溶接の最初の手ほどきをしてくれた師匠だからだ。さらに職場の上下関係を抜きにしてアマチュアロックバンドを組み、一 緒にステージに立った同志でもある。溶接工として最高の腕を持っていたSさんは今、直接溶接には関わっていないが、やはり手先を器用に動かしてものをつく る腕は健在で、アルミの厚板材からリューターを使って手作業で削りだす(彫りだす)手法でバックル作りを続けている。わたしの座るカウンターの左隣にはS さん手作りのガラス窓をしつらえた棚があり、そこに過去のオリジナルのバックル作品が整然とディスプレイされてある。淡い照明があてられて、掘り深く、サ ソリやドクロなどのオリジナルキャラクターを文字の間に忍ばせて調和させたデザインが浮かび上がり、そのどれもが手の込んだつくりで光沢があり、溜め息が でるほど美しく完成されてある。

「今は中断していますね。あれ以来とてもまだそういう気分にはなれていないです」

この日わたしは雨の東京を真夜中に出発し、福島第一原発の事故の為に寸断されて通れない常磐道を避け、東北道で福島西I.C.まで行って高速を降り、飯舘村 を経由して朝方に南相馬市に入ったのだった。郊外店の広い駐車場で仮眠してから、ゆっくりと被災地の現状を見て回る事にしていた。ボランティアに来たので もなく、物見遊山といわれても仕方がないが、震災、津波、原発事故以降抱えたままの無力感を引きづりながら、現状の一片をこの目で観、皮膚感覚で確かめた いと国道6号線に向かったのだった。Sさんに会って、無遠慮でバカな質問などしないように事前に準備する下調べのように観て回っておきたかった。

津波の被害は未だにいたるところに爪痕を残していた。原町区渋佐の海岸へ通じる道の両側にはコンクリートやアスファルトの瓦礫が積まれ、家屋の残骸、押しつ ぶされてひしゃげた自動車などが重ねられてあった。舗装が捲れてしまったのか、砂利道というより雨でぬかるんだ土砂道はもうその先に車で行くことができな い。頭の中に、南相馬市上空を飛ぶヘリコプターから空撮して報道された津波時の映像が浮かぶ。来た道を戻り、6号線を北に向かう。災害時、Sさんが居たで あろう鹿島区に入ると、6号線のすぐ右脇に漁船が乗り上げたままになってある。見渡すとそこがかつて田畑だったのかわからないが、右手の草原のあちらこち らに漁船やヨットが横倒しになったり船首を持ち上げたままの状態で放置されてある。6号線を右に折れ266号線で海へ向かう。全体的には坂の少ない平地だ が、ところどころに緩やかな丘があり、その裾に被害を免れた家屋が建っている。道を挟んで右側と左側の風景が違う。これも運としかいいようがないが、ほん のわずかな差で被害の大きさが左右されているのがわかる。

台風の影響で波は高くて荒く、頑丈そうに並べられたテトラポットや岸壁に体当たり しては凄まじい音とともに大きな水飛沫をあげていた。どんよりと濃い灰色の雲に覆われた空からは時折思い出したように雨が降ってくる。右手には岬のように 海に突き出た原町火力発電所が見える。わたしはそこで手を合わせ、死者のご冥福を祈るので精一杯だった。10分もいられなかった。過去に見て知っている海 とは何か別もののように思え、背筋がすっと冷えてきたからだ。わたしは逃げるように来た道を引き返した。

原町区渋佐にて

6号線沿いのショッピングセンターでは開いている店もあれば閉まっている店もあった。家電量販店でいえば、ヤマダ電機は営業していたが、ケーズデンキは閉 まったままという具合に。食品スーパーを覗いてみると、一通りの品揃えはあったように思う。米、野菜、肉、魚、インスタント食品、日用雑貨消耗品なども特 別高い値段ではなく、普通に並べられてあった。お惣菜コーナーで弁当を買い、車中で昼食を済ませてから、午後一時過ぎにわたしはSさん宅に向かったのだっ た。

久しぶりに会うSさんは以前より精悍さを増したように感じた。聞くと、「痛風」になりダイエットをしたのだという。そうとうな痛みを 伴ったらしく、それをきっかけに我ら中年特有の健康談義になり、プリン体の話、わたしの結石の痛みの話を経て、怒濤のごとく震災、原発事故の話を含めた 様々な話を交えたのだった。何もお構いなくといっておいたのに用意しておいてくれたお刺身の盛り合わせや手料理をツマミにひたすらビールを飲み、お互いに 話し合い続けたのだった。メディアで報道されることがない、ここ現地での個別の事情による個人的な体験談、報道される表層の皮を一枚も二枚も剥いだ裏にあ らわれる醜悪な人間の欲望がらみのこと、善意を装った悪意ある行動の実態、解決されていないことがあまりにも多すぎて、あの日から結局何も変わっていない と思えてしまう実感など、具体的で貴重な話を聞かせてもらえたのだった。お店のマスターだけあって、お客さんからの生々しい情報も入る。釣り人から聞いた という話はやはり衝撃的だった。わたしは気になっていたことを聞いてみる。ここに来る途中、人気のない飯舘村も含めてパトカー、しかも他県ナンバーのパト カーと多くすれ違ったんですけど、あれは?と尋ねるとSさんは「犯罪があったんですよ」と応える。

「災害に便乗した空き巣、銀行のATM、 その他もろもろ。でも、それらも半年近くたって次第に過去のことになりつつあるわけですよ。今はただ普通に犯罪があるのでしょう。それは東京でも日本全国 どこでも起こり得る犯罪の確率とそんなに変わらないと思いますよ。それがIさんも感じたように、今度は逆にあまりにも目につくパトカーの存在が、戻ってこ ようと思っている人達や、他から来た人達に、この町をまるで無法地帯のように感じさせてしまうんじゃないかって、そこが、もう少しうまく配慮してくれない かなって思います」

パトカーは福島県警に限らず、静岡県警、愛知県警、記憶がおぼろなのだが、鹿児島県警も見たような気がする。

「東北人の美徳とか、冷静沈着であったとか報道されていたようですけど、やっぱり人それぞれじゃないですか。どこ行ったって一緒だと思うんだけど、いろんな人 がいて社会が成り立っているわけで、個別の事情があって、それぞれに立ち位置があって、だから考え方だっていろいろあるわけで。我慢強い人もいれば、そう じゃない人だっているのが普通でしょう。それを東北人とかって、いっしょくたにして美談として伝えようったって、それは嘘でしょう」

もっともな話にわたしはただ相づちを打つ。

「むしろそういう報道をされると、こっちは強制されているような気がしますよ。君ら東北人は我慢しなさい。こういう時こそ冷静沈着に我慢して下さいってね」

S さんは昔からストレートな人だ。言うべきことをはっきり言うし、嘘くさいことを嫌悪する。動物的な感覚を持って曖昧さを見抜き、自分で判断し決断する。人 を引っ張っていく力もある。会社員時代も、同僚や後輩に慕われ、人望が厚かった。吠えてるぜ、ボス!「Shout,Boss(シャウト・ボス)」はSさん の別称だが、Sさんの魅力はそれだけではない。「笑い」だ。ユーモアが好きで、こよなく「笑い」を愛し、楽しむ。真面目な話も真剣にするが、深刻になりす ぎない。人を相手にすることに配慮がある。人が好きなのだと思う。だから人からも好かれる。一緒にいて楽しい。Sさんと共有した時間はいつも楽しい記憶と して刻まれている。「酒場のマスター」はSさんにとって天職ではないかと思うのだ。

Sさんのお店「Shout」では、Sさ ん夫妻とカウンター越しに地元で飲食店を複数店経営しているというオーナー夫妻と原発避難の為にオーナー宅に居候しているという勤勉従業員一人(子守りも 兼ねて)、スナックの営業を終えて来たというママさん達との間で笑いのバトルが繰り広げられている。

「そんで、もう脳天フィアー!!(爆笑)」
「よしなさいって」

皆さん頭の回転がものすごく速くて、わたしはそのスピードについていけてないのだが、独特のノリがあって意味もわからないのに笑える。オーナーの奥さんの笑 い声がとにかく明るい。ケタケタと南方の鳥が飛んでいくように笑う。加えてスナックのママはダジャレー夫人だった。開店当時からの常連さん達とのことだ。 次第に話題は普通に下ネタに移っていく。わたしは腹筋が痛くなるほど、笑わせてもらっている。

「下ネタはイイよね。誰も傷つけないから」

こういうふうに笑えるようになったのも、最近のことだと皆さんがいう。これまでに、とことん話を交えてきたのだという。ただ、切りがない。時間だけが経過し ていく。あれから半年が過ぎようとしていて、少しは良くなっているのだろうか。いや、変わらない。何も解決されてはいない。しかし、一緒にいて強く感じる のはそれぞれの個人が、それぞれの事情で個別に考え、個別に判断し、個別に決断し、今、この南相馬市に戻って来ているということだ。強い覚悟のもとに。サ バイバルにおいて、動物的、生物的な判断が必要とされているのかもしれない。東京で被曝した夢を見たわたしも人ごとではないし、彼らに勇気をもらったなどという生易しいことでもない。彼らの覚悟の強靭さに影響を受け、自分の甘ったるさに気付き、気を引き締めようと思うのだった。

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東京に戻ってからも、脳天がフィアー(笑)した状態がしばらく続いた。

RCサクセションのアルバム「カバーズ」に入っている「イマジン」の中で偉大なるソウルシンガー・忌野清志郎が歌っている。「夢かもしれない」と。「僕らは薄着で笑っちゃう」とバックコーラスに揶揄されるなかで繰り返しそう歌う。

先はまだまだ途方もなく長い。だが、何かに頼って依存するのはかっこ悪い。立ち上がれない人もいる。まずは立ち上がれる人が立ち上がればいい。省略せずに、手順を踏んで継続させていくこと。それがやがて、個別と個別を繋げて大きなうねりを生み出す原動力となるだろう。

夢かもしれない。だが、わたしは想う。実現を目的とする想い。サバイバルの本能で生き抜く、自分を含めた人々の想いを。

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